cocoalightのブログ

人生を豊かに楽しもう!!毎日の気付きを残して行きたいと思います。

理美容師世界一。

田中トシオさん69歳。

1992年に開催された世界理美容選手権大会にて

アースティック

クラシカル

ファッション

の3部門全てにおいて優勝した。

さらに団体戦でも日本に金メダルをもたらした。

部門で優勝した人はいない。伝説の理容師だ。

 

 

田中さんはもともと理容師になりたかったわけではなかった。

家庭が貧しく、中学卒業と同時に親のすすめでなったが

器用さがものをいう世界で彼は不器用だった。

何度もお客の顔をカミソリで切ってしまっていた。

自分ではやりたくないことを押し付けられて生きている

と感じた人生から、考えが変わったのは19歳のとき。

 

コンテストに挑戦することになり、地方の大会ではそこそこいい成績を

出せるようになったが、日本一はまだまだだった。

 

夜9時に店をしめ、3人のモデルを相手にカットの練習をした。

寝るのは毎日2時をまわっていた。

 

道具にも拘った。

日本一の櫛職人がいるヤマコという手作り櫛メーカーに22目の櫛を注文した。

一般に市販されている櫛は10目。

プロの理容師が使っている一番薄い櫛で18目が限界と言われていた。

 

そんな櫛は作れねぇ!と職人に断られた。

日本一になるためには、どうしてもその櫛が必要なんだ!と食い下がったが

職人は首を縦には振らなかった。

 

三度目の電話は1時間に及んだ。

そんな櫛はできねぇ!と言い張る職人に対し

「あんたが日本一の櫛職人と聞いて頼んでいるんだ。

死ぬ気で日本一を追いかけている客の櫛一本もつくれないのか」と

捨て台詞をはいた。

 

数日後、できるかわからないがやってみると返事があり

何本でも買い取る約束をした。

思い通りの櫛ができたのは4本目だった。

その櫛を使って悲願の日本一を果たした。

 

しばらくして・・・・

 

理容師の講演会場でヤマコさんが店を出していることを知り、

挨拶にいった。

 

顔を見るなり「田中さんですね」と声をかけてくれた女性がいた。

あのときの職人の娘だった。

職人はすでに亡くなっていた。

 

あの長い電話のあと職人の父はこんなことを言っていた。

「俺は日本一の櫛職人だと自負していたが、歳をとるにつれ

楽を選び、普通の櫛ばかり作っていた。

あの男にそれでも日本一の櫛職人か!と言われて目が覚めた。

意地でも一世一代の櫛を作ってみせる!」と。

 

そして田中さんがその櫛を使って日本一になったことを知ると

「もう思い残すことはない。職人の誇りを持って死んでいける」と

冗談交じりに話していたそうだ。

 

それを聞いた田中さんは男泣きした。

 

日本一の栄光の舞台裏には、沢山のドラマがあった。

 

誰にでも手を合わせたい人がいるものだ。

だがその人が自分の為に苦労していたことは案外知らないものである。

 

みやちゅう2607号より。